歴史の軌跡-紅毛井戸
300年前にオランダ人によって掘られたことから「オランダ井戸」と呼ばれており、オランダ人が赤毛であることから「紅毛井戸」とも呼ばれています。1636年(崇禎9年)、オランダ東インド会社が諸羅山社を平定して間もなく、清朝統治後の県庁において、政務員と牧師を派遣し、諸羅山一帯の平地先住民および漢人から税を徴収するほか、先住民にキリスト教を布教し、井戸を掘って住民の生活に必要な水源とする取り決めが交わされました。
鄭氏の時代には総兵の呉智武が諸羅山を開墾し、井戸の北に駐留して井戸を改修しました。清朝統治後の修繕記録は残されていませんが、1762年(乾隆27年)に諸羅県の知県・衛克堉がこの井戸の水のおいしさをたたえ、諸羅山の頂点に位置するものとして「オランダ井戸の甘美」を諸羅八景の一つに数えました。清朝統治末期の嘉義の進士・徐徳欽もこの井戸の水について「美酒のように澄み、美酒に勝る甘さがあり、茶をいれるのに適し、雪解け水のように冷たい」として嘉義で一番であると称しました。
文献には「紅毛井戸は県署の左にあり、オランダ人が掘ったことがその名の由来である。大きさは6尺、深さは2丈ほど。ほかの井戸をしのぐ透き通ったおいしさがあり、その水を飲む住民は病知らずだといわれている。鄭氏の時代には呉智武という者がこの地に駐留して井戸を改修した」とあり、「オランダ井戸の甘美」はかつて諸羅八景の一つに数えられました。
1985年(民国74年)に中華民国内務省が史跡の鑑定を行うまでは第3級史跡に指定されていましたが、鑑定時には井戸の周囲が荒れ果て、井筒も1970年の新条項のために史跡の指定が解除されました。とはいうものの、紅毛井戸は今なお嘉義市内で最も古い史跡です。