台湾・野球・夢
嘉義は台湾野球運動の発祥地で、日本統治時代の大正 7年(1918)に嘉義市立野球場が竣工されました。当時は最高の野球場でした、その後、1998年9月に改修され再スタートを切りました。そのスタンドはローマ競技場のように設計されており、グランドを取り囲むように配置されている座席からの眺めは素晴らしいものがあります。
野球場正門左側にある「七虎耀諸羅」と「威震甲子園」のブロンズ彫刻や水道の設計は野球運動の伝承と飲水思源(物事の基本を忘れないこと)を象徴するものとなっています。
.ブロンズ彫刻のミニ百科
.「七虎耀諸羅」ブロンズ彫刻
1968年に嘉義市少年野球がトーナメント優勝した後、台中の熱心なファンの賛助と経営管理により、金龍少棒隊の名義で、1969年米国ウィリアムスポートで開催された第23回リトルリーグワールドシリーズに参加しました。その結果みごと優勝を勝ち取り、台湾全土は歓喜に沸き上がりました。
1970年嘉義市少年野球チームは再び全国少年野球リーグ優勝を勝ち取り、嘉義の少年たちでなる七虎少棒隊は極東地区優勝を実現し、ワールドシリーズに進みました。台湾全土の野球の熱狂は極点まで達しました。
.「威震甲子園」ブロンズ彫刻
現在の「国立嘉義大学」の前身の「国立嘉義技術学院」は、日本統治時代は「台南州立嘉義農林学校」であり「嘉農」と呼ばれていました。
昭和 6年(1931)に嘉農野球チームは日本へ遠征し、大阪の甲子園野球場で参戦しました。その結果、第17回日本全国中等学校優勝野球大会で準優勝し、その名声は遠くまで伝わり、時が過ぎても衰えませんでした。「威震甲子園」のブロンズ彫刻は嘉農野球チームが台湾野球史に輝かしい1ページを加えたことを記念するものです。